「何も、知らないんですか?」
「ほとんどね。離婚した原因も知らない。気が合わなくなっただけかも」
「やっぱりいい加減ですね」
「詩織ちゃんの事をいい加減だと言うのなら、相手の男もいい加減だったという事ね」
クスリと笑う。
「調べればわかるんだろうけど、詩織ちゃんが知らないなら探し出すのは難しいかもね」
「言いたくないだけなのかも」
「どちらも同じよ。詩織ちゃんが隠しているというのなら、やっぱり難しいと思うわ」
「私には、知る権利はあるはずです」
「だったら、それは私ではなく詩織ちゃんに言うべきね。詩織ちゃんを説得すべきだわ」
「マトモに説得に応じるような人間じゃありません。そもそも人の話なんて真剣に聞くような人じゃない。面倒な事からはすぐに逃げようとするんだから」
「そんな事ないわ。根気よく話せば聞いてくれるはずよ。人の話に耳を傾けるような事のできない人間に、この世界の仕事は務まらないわ」
母を擁護するような綾子の発言が、美鶴には気に入らなかった。これでは、まるで自分がただ我侭を言っているだけのようではないか。
「聞いてなんてくれませんよ。教えてなんてくれない」
「そんな事ないわよ」
綾子の言葉が、少し笑っている。
「知っていれば、ちゃんと教えてくれるわよ」
癪に障る。
「教えてなんてくれません。聞いてもはぐらかすだけです」
「ちゃんと聞いた?」
その瞳が、癪に障る。まるで自分の聞き方が悪かったみたいではないか。
悪いのは母なのに―――
「聞きました。でも教えてくれないんです」
「時間をかけて、じっくり説得してみたら?」
「何度も聞いてます」
嘘だ。昨日の夜、思いつきで聞いただけだ。だが、美鶴はもはや引き下がれなかった。
朝早く、始発に乗ってやって来たのはもはや賭けのようなものだった。だが、こちらはそれなりの意を決して聞いているのだ。
そうだ、これからの人生を賭けているのだ。賭ける程の価値もないと言いながら、それでもこれは自分の人生なのだ。少しでも今の生活を改善できる手立てが存在するのなら、その方法に賭けてみたい。縋ってみたい。
傍から見れば美鶴の行動は実に無様で、唐渓の同級生達に知られればバカにされるのは間違いない。でも、それでも美鶴は自分を止める事ができなかった。岐阜へ来るにはそれなりの決意が必要だった。
なのに相手は、母の擁護ばかりをする。
ママも、母と同じなのか。
「ママも隠すの?」
「隠してなんかいないわ」
語気を荒げる美鶴の態度に、綾子は大人の風格で冷静に答える。その態度にも腹が立った。
そうやって澄まして嘘をついていればこちらが納得するとでも思っているの?
バカにしないでよっ!
「隠してるわ。ママもお母さんも私をバカにして隠してる」
「バカになんかしてないわ。詩織ちゃんも同じよ」
「でも、私がこんなに一生懸命聞いてるのに、何一つ教えてくれない。父の名前の書かれたメモを見つけて突きつけてやってもシラを切るだけで――――」
バシャッ!
手元の水割りが跳ね、着物に染みを作る。
綾子と同じように、美鶴も目を丸くした。
「父の、名前」
嘘だった。出任せだった。
父の名前の書かれたメモなど、目にした事もない。ただ、綾子があまりに母を擁護するから我慢できなかっただけ。母がどれほど自分の話を無視するのか、それを伝えたかっただけだ。母がどれほどいい加減な人間なのかを訴えたかっただけだ。なんとしてもママから、「そうね 悪いのは詩織ちゃんだわ」 という言葉を引き出したかっただけ。
だが今、目の前の相手は腰を浮かせ、美鶴が望んだ以上の表情でこちらを凝視している。
そう、穴のあくほど凝視している。
「名前?」
グラスをテーブルに置き、乗り出すように問いかける。そんな相手の態度に美鶴はやや身を仰け反らせる。
「父親の名前を、知っているの?」
「え、ええ」
今さら、嘘だとも言えない。
相手の表情に小さな不安を覚えながら、美鶴は肯定した。
私、なにかすごい事言った?
しばらく何も言わない相手にさらなる不安をおぼえ、たまらず口を開こうとした時だった。
「こんなところに居たの?」
間延びした声が割ってはいる。振り返る先では、白塗り厚化粧の半眼。
「自宅謹慎中なんでしょ? 子供は帰りなさい」
扉に肩を寄せ、背後から午後の陽射しを浴びる詩織の姿は、逆光によりその表情までは見えない。
きっと人を小バカにしたような、呆れた顔をしているのだろう。なぜここがわかったのか? だが聞けば、さらに見下されるだろう。直前に聞いた母のうんざりしたような声音。綾子との問答で胸の内に湧いた燻りも相乗効果となり、美鶴は剣呑に詩織を睨み返す。
「お母さんみたいな人間に、子供扱いされたくない」
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